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一級建築士事務所(株)ローバー都市建築事務所

カフェが育む芸術空間

(2012年2月24日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術130 より引用)

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京都市中京区錦小路室町上ルにある「京都芸術文化センター」。元は1869(明治2)年に下京第三番組小学校として開設された、明倫小学校。1931(昭和6)年に建設された旧校舎を改修・再生して、2000(平成12)年より京都の芸術文化発信の拠点として現在まで使用されている。館内では、絵画・演劇・ダンスなどの幅広い活動が日々活発に行なわれ、若きアーティスト達の創作活動・発表の場となっている。
先日、そんな京都芸術文化センター内にある「前田珈琲 明倫店」=写真=を訪れた。以前は、小学校1年生用の教室として使用されていたという、カフェスペースは、居心地もよく懐かしい気分になる。聞けば、00年の芸術センター開館以来、喫茶の持つ本当の良さをこの場所で伝え続けているという。
高い天井を見上げると、丁寧な装飾が施された大きな白い梁(はり)が印象的である。梁の端部を斜めに折り下げ強度を増したスタイルは"垂直ハンチ"と呼ばれ、昔の建物によく見られる設計手法であるが、むしろそれが目新しい。また、床材には天然木のナラフローリングが使用され使い込むほどに味わいのあるしつらえとなっている。椅子やテーブルに至るまで、和洋折衷様式を意識した、レトロなスタイルでまとめられ、老若男女を問わず愉しむことのできる安らぎとぬくもりの空間を創出している。

 計画当初は、自動販売機スペースとして計画されていた、一年生の教室空間。文化と芸術がふれあい、新しい歴史が育まれる中で、一杯の珈琲と、そのスペースが持つ意味性を感じることのできたひとときであった。

重要文化財 瀧澤家住宅

(2011年12月9日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術126より引用)

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 義経伝説でも有名な京都市左京区「鞍馬」。古来より、鞍馬は丹波や若狭と京都との間の物資の中継点としても発展を遂げ、街道沿いには、山間の良質な薪炭などを扱う問屋等も軒を連ねていた。付近一帯には市中と変わらない形式の町家が多く立ち並び、情緒ある町並みが今もなお続いている。
 先日、叡山電鉄鞍馬駅から鞍馬街道を500メートルほど北上したところにある、「瀧澤家住宅」(写真)を訪れる機会に恵まれた。「瀧澤家」は旧炭問屋と伝えられている町家であり、国の重要文化財に指定されている。祈祷(きとう)札には、「寶暦十庚辰四月廿五日」と記され、今から約250年前の宝暦10(1760)年に建築されたことが知られている。現在、京都市内にある重要文化財である町家は他に下京区にある「角屋」と「杉本家住宅」、そして中京区にある「小川家住宅(二條陣屋)」の3件しか指定されていない。
 建物の両妻に卯建(うだつ)をかまえる格式のある外観は、江戸時代後期における標準的な京町家の様式を現代に伝える貴重な文化財となっている。間口4間半のうち西側2間を通り土間とし、その東側に一列3室の座敷が計画されている。通り土間形式である京町家の例としては現在知られる京都市内最古のものであるといわれている。2階部分には、通りに面して2室の座敷と、屋根裏に薪炭置き場が計画されており、辷(すべ)り戸天井を引き開けて、箱階段で上階に上る構造となっている点は興味深い。
 洛中の町家のほとんどが、過去の大火によって失われた中、近世京町家の典型事例として鞍馬の山中に「瀧澤家住宅」は残り続け、私たちにその姿を伝え続けているのである。

古都の香りを未来にはぐくむ

(2011年10月7日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術122 より引用)

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 応仁の乱以降、豊臣秀吉の京都改造によって寺院が集められ、現在の原型をつくりあげた京都寺町かいわい。平安京造営時代に「東京極大路」として計画された「寺町通」には、明治28(1895)年から大正15(1925)年まで、31年間にわたって路面電車が走り、京都のメーンストリートとしてそのにぎわいをみせていた。
 現在でも、丸太町通から南に軒を連ねる商店街には、創業294年の「一保堂茶舗」をはじめ、創業230年の「龍枝堂」、創業170年の「末廣」、更に創業100年以上の「更科」「大松」「豊松堂」「船はしや総本店」「村上開新堂」「京都古梅園」といった、京都でも屈指の老舗がずらりと軒を並べ、当時のにぎわいを、今もなお、街路に形成している。その他にも、古美術店や画廊・古書店が多数建ち並び、古都・雅(みやび)の文化の香りを現代にはぐくんでいる。
 そんな「寺町通」に1軒の住宅を設計する機会に恵まれた。西国33カ所第19番札所である行願寺革堂にほど近く、イチョウ並木の歩道に面した計画地には、周囲の景観に配慮した美しい建物であることが求められた。杉板模様のコンクリート打ちっ放し壁と、「和」を象徴する格子をリズミカルに繰り返しながら外観を形成し、伝統美を感じさせながらも現代和の構築を目指した。端正なたたずまいを感じさせる建物の1階にはギャラリー「Art Space-MEISEI」を計画し、芸術・文化の情報発信施設としての機能も内包した。
 新景観法の施行以来、京都にとってふさわしいデザインのあり方が議論されるようになった古都・京都。古いものを守るだけではなく、これから、次の世代になにを伝えるべきかという観点からのアプローチも非常に大切であると思えた寺町のプロジェクトであった。

順正書院と新宮凉庭

(2011年7月8日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術116より引用)

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 先日、京都市左京区南禅寺門前にある「南禅寺順正」を訪れる機会に恵まれた。約1200坪の広大な敷地のなかには、国の登録有形文化財にも指定されている「順正書院」の他に数棟からなる端正な和風建築とともに、豊富な山水を使った風情のある庭園が広がっている。
 江戸後期の蘭医学者でもあり儒者でもあった、新宮凉庭(1787~1854)がこの地に医学校である「順正書院」を、開設したのは今から172年前の天保10(1839)年のことである。丹後国由良(宮津市)で生まれた新宮凉庭は、長崎で蘭医学を修養したのち帰郷し、文政2(1819)年に京都で医院を開業、やがて京都随一の名医となった。その後、私財を投じて、当地に医学校を設立したのが、この順正書院であり、内外科のほかに6学科を定め、体系的な医学教育が行われ、現在の京都府立医科大学の礎を築くこととなる。
 瓦ぶきの大屋根に桧皮(ひわだ)をあしらった外観が特徴的な書院本館は、学問を修める場としてふさわしく、荘厳なしつらえの中に上質で落ち着いた空間が整えられており、凉庭が講義を行った「上段の間」をはじめとして、医塾創設当時のたたずまいを残したまま現在も大切に使用されている。
 同じく、172年前の創設当時からある玄関脇の石門には「名教楽地」という文字が刻まれている。「名教の内、自ずから楽地有り」という晋書(中国の歴史書)の言葉に由来したこの書には、「人の行なうべき道を明らかにする教えを行う中に、おのずから楽しい境地がある」という意味が込められている。
 静かで美しい庭園と歴史ある建物に囲まれながら、先人の残した言葉の重みを感じたひとときであった。

格子に感じる先人の知恵

(2011年6月3日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術114より引用)

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 先日、山科にある、1軒の和風住宅の再生をさせていただく機会に恵まれた。東山の山裾に位置する閑静な住宅地の中にあり、周りの緑や風景ともよく調和のとれた、美しい住宅であった。長年、この場所に住まわれてきたクライアントであったが、家族構成やライフスタイルの変化により、更に快適な住まいへの改装を希望されていた。
 通風と採光を向上させるために、建物の一部を除却することにより、開放的な庭スペースを確保すると共に、南側の日だまりスペースにタイル張りのリビング空間を計画する等、再び始まる新しい暮らしを快適に過ごしていただけるよう、全体的に工夫を凝らした。
 写真は、格子によるスクリーンを計画した玄関ホール部分。ライトアップされた細めの格子が、パブリックスペースとプライベートスペースを緩やかに区切ると共に、デザインのアクセントを形成している。
 京町家に代表されるように、格子は和風のデザインを語る上で、欠かせないエレメント(構成要素)となっているが、多くは外部空間において使用されることが多い。空間を区切ることのできるひとつの大きな壁面でありながら、採光と通風を確保し、同時に進入と視界を制御できることがその大きな特徴である。特に、京都においては、格子は独自の進化をとげ、親子格子や板子格子・細目格子など、さまざまな種類の格子が考案されてきた。
 いわば、先人たちの智恵の蓄積ともいうべき豊かな工夫が、格子にはこめられている。現代においても、その意味合いを再考し、更なる工夫を格子に加えていくことにより、大事な伝統を伝えていきたいと、改めて感じることのできたプロジェクトであった。

伝統京町家をホットスポットに

(2011年2月11日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術107 より引用)


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先日、京都市下京区仏光寺通柳馬場にある四軒長屋の一画を改装する機会に恵まれた。大正時代に建てられたであろうこの長屋は、建設当時の趣を残す手入れの良く行き届いた京町家であった。この京町家と今回新しくご縁のあったクライアントは、京町家の風情を生かしながらも、最新のテクノロジーを取り入れた居心地のいいCAFE空間への改装を希望されていた。

 幼いころ、テレビでみた「ウルトラセブン」という番組の中に、こんなワンシーンがあったのを思い出す。ウルトラ警備隊が装備する「ビデオシーバー」とよばれる腕時計形のテレビ電話があった。それぞれのモニターには鮮明な映像が映し出され、腕時計を介して隊員同士が連絡を取り合っていたのである。あれから約40年。当時は、夢のように思えた未来の仮想技術も今や現実のものになりつつある。

 写真は、京町家を改装したCAFE「esrille(エスリル)」の店舗空間。座敷の天井や、既存建具のぬくもりをうまく活用しながら、落ちつきのある空間への再生を心がけた。座椅子には「カリモク60」と呼ばれる60年代に販売されたデザイン家具が使用され、レトロでモダンな雰囲気作りに一役かっている。

 そんな伝統的な京町家の内部には、現在の最新技術である「WI-FI(ワイファイ)」と呼ばれる無線コンピューターネットワークが完備され、店内の至る所で、インターネットや通信ゲーム等が使用できる環境(ホットスポット)が整備されている。また、スポットライトには全てLED(発光ダイオード)が使用され環境にも配慮した、先進的な取り組み事例となっている。

 伝統町家に最新技術。先人と現代人の知恵の融合による、新しい取り組みは今後の京町家再生のよき参考事例となることであろう。

守り続ける伝統と美しさ


(2011年1月28日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術106 より引用)


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 先日、京都市中京区六角通新町西入にあり、国登録有形文化財でもある「久保家住宅」を訪れた。現在は、京料理店「懐石 瓢樹(ひょうき)」として、この邸宅は大切に使用されている。六角通に面するこの建物は、明治期に日本画会で活躍した今尾景年(いまおけいねん)の自宅として、大正3(1914)年に建築された。

 京都友禅染の家に生まれた今尾景年は、友禅染の下絵描きより画を始め、浮世絵の技法を学んだ後、確かな写生にもとづく優美で流麗な花鳥画を得意とする画家であった。その精緻で写実的な作風は海外でも高い評価を得、明治33(1900)年のパリ万博で銀牌(ぱい)、明治37(1904)年のセントルイス万博で金牌を受賞した明治美術界を代表する巨匠でもあった。

 約400坪の敷地の中央部に建てられた母屋は、桁行(けたゆき)10間・梁間(はりま)6間の規模を持ち、東側に土間、西側に10畳と15畳の続き座敷が計画されている。更にその南側には10畳の応接室を持つ玄関棟があり、互いを渡り廊下でつなげながら、巧みに庭園を配置することにより、自然を肌で感じることのできる今尾景年らしい、品格のある近代和風住宅に仕上げられている。皇室御用林より切り出した良材による、総栂(つが)造りの邸宅は、100年近い歳月を経た今もなお、その本物の輝きを増しているようにすら感じられる。

 「瓢樹」の3代目ご主人、西村誠氏はこう語る。「あくまで建物が第一、料理は脇役。由緒ある文化財の名を汚さぬように、本物の輝きには本物の料理を出さないといけないと考えています。」と。

 時は流れても、伝え続けられる伝統の美しさ。時代によって変わり続ける、京の素材を使いながら、変わらぬ味を守り続ける「瓢樹」の看板とともに、今尾景年のかつての邸宅も守り続けられると感じたひとときであった。

環境と家計に優しいエコリフォーム

(2010年12月17日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術104 より引用)


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 今年から新しく導入された「住宅エコポイント制度」。年末のこの時期、多くの方から住宅リフォームのプロジェクトをご依頼いただいている。制度が始まった当初は、まだ一般に広く知られていなかったこともあるとは思うが、日々、寒さが増すにつれて、マイホームの断熱改修・省エネリフォームをお考えのクライアントが多くなってきたことを実感する。

国土交通省・環境省・経済産業省が一体となって取り組むこの住宅エコポイント制度は、改修後の断熱性能がある一定の省エネ基準(1999年基準)を満たせば、30万ポイントを上限として、商品券や省エネ・環境配慮型製品等と交換できるシステムとなっている。このポイントを使用して、新しくテレビや冷蔵庫等の家電製品を購入すれば、家電エコポイントも更に取得できることとなる。

住宅における断熱技術の進歩はめざましく、10年前までは高価であったペアガラスや、高機能型断熱材も、現在では手軽に使える状況にまでなりつつある。写真は、先日、リフォームをさせていただいた「西京極 K HOUSE」。築25年の鉄骨ALC(軽量気泡コンクリート)造りの建物に断熱リフォームを施したプロジェクト。冬寒く、夏暑かった過ごしにくい室内空間は、冷暖房負荷を低減した快適なリビング空間へと生まれ変わった。

来年は更に、太陽光発電・節水型トイレ・高断熱浴槽についても補助が拡充される予定である。その他に京都市においては、生け垣に対する助成や、外観改修に対する助成等、さまざまな補助金制度も準備されている。いろいろな補助制度や減税制度を利用しながら、環境にも家計にも優しく、賢いリフォームを心がけていきたいものである。

祈りを捧げたあの日

(2010年10月22日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術100 より引用)

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 旧薩摩藩邸跡にある同志社今出川キャンパスには、五つの重要文化財を含む多くの赤煉瓦(れんが)建築が現存する。明治17(1884)年に建設された彰栄館を最初として、次に建設されたのが、同志社礼拝堂である。明治19(1886)年竣工(しゅんこう)のこの礼拝堂は、通称「チャペル」と呼ばれ、同志社の歴史とキリスト教精神を象徴する建物として親しまれている。

 設計は先の彰栄館と同じく、当時、宣教師でもあったD・C・グリーン。鉄板葺(ぶ)き煉瓦造りのこのチャペルは、飾り気のない「アメリカン・ゴシック」スタイルの美しい建物である。あっさりとした、ゴシックデザインはプロテスタント系の礼拝堂にふさわしく簡素な意匠構成となっている。煉瓦積みの外壁は、「イギリス積」をアレンジした、長手積み3段、小口積み1段を繰り返すいわゆる「アメリカ積」で積まれている。先の彰栄館が長手積み4段であるのに比べて、強度的にも強い3段で組まれていることは個人的にも興味深い。

  中学時代の3年間、毎朝、賛美歌を歌いながら、聖書を一緒に読んだあの思い出は、今でも鮮明に覚えている。色とりどりの木製ステンドグラスからは、赤・橙(だいだい)・青・緑などの柔らかな光が差し込み、パイプオルガンの荘厳な音色と共に穏やかなひとときを過ごした。

  礼拝堂内部は、プロテスタントの教会にふさわしくシンプルな単身廊で構成され、露出された小屋組の部材が美しかった。建築の勉強をしてからは、この小屋組は「鋏(はさみ)小屋組」という洋風建築の技術の一種であることを知ることとなる。

 ともあれ、独特の甘酸っぱい香りのするチャペルの中で、祈りを捧(ささ)げたあの日の思い出は、今の私の人間形成に大きく役立っており、感謝すべき美しい思い出なのである。

堀川京極と下駄履き住宅

(2010年10月8日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術99 より引用)

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 京都市上京区にある堀川商店街。現在、堀川通りの西側には、上長者町通りから下立売通りまでアーケードがある。この商店街一帯は昭和初期まで「堀川京極」と呼ばれた300軒以上の商店が軒を連ねる大きな繁華街の一画であった。鉄骨アーチの全蓋(ぜんがい)テントと電気照明に私費舗装を備え、東の「新京極」とならぶ市内有数の繁華街・歓楽街として栄えていた。二つの映画館と三つの銀行、二つの市場を中心に、さまざまな種類の商店・飲食店が建ち並び、活気あふれるその姿はさながら不夜城のようであったといわれている。

 現在のように、堀川通りが大きな道幅となったのは、第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年春のことである。空襲による延焼を防ぐ目的で京都府により強制疎開が実施され、御池通・五条通とともに学徒動員による道路拡幅工事が実施されたのである。繁栄を極めた「堀川京極」もわずか数日にしてその姿を消すことになった。

 そんな堀川商店街の中核には、現在、通称「堀川団地」と呼ばれる、6棟の鉄筋コンクリート造りの店舗付き集合住宅がある。戦後、強制疎開によって、家や商店を失った元の住人のために、京都府住宅協会(現・京都府住宅供給公社)が昭和25(1950)年から28(1953)年にかけて建設した3階建ての公営住宅である。広い廊下と庭のついた近代的な団地は日本で初めての「下駄(げた)履き住宅」(1階が商店・事務所等、その上層階が住居となっている住宅)ということもあり、当時、全国から多数の見学者が訪れたそうである。

 あれから約60年。近代的であった総戸数160戸の「下駄履き住宅」も老朽化が進み、その活用が議論され始めている。これからの京都にとって、ふさわしい空間創生であってほしいと願うものである。

景観政策の進化のかたち

(2010年9月17日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術98 より引用)

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 山紫水明と称(たた)えられる豊かな自然と、1200年の悠久の歴史に育(はぐく)まれてきた、歴史都市・京都。そんな京都にふさわしい景観の保全と創造を目指して、取り組まれている京都市の「新景観政策」。日々、失われつつある京都の美しい景観を取り戻すために、平成19(07)年9月より施行された。あれから3年。

 「京都らしさ」とは、一体どういったものであるのかという、大きな命題を抱えつつ、私たちと京都市は共に、さまざまな考えをぶつけ合ってきた。そんな「新景観政策」が現在、ひとつの転機を迎えようとしている。

 「景観政策の進化の素案」と題された京都市の資料によると、3年間の「新景観政策」の運用・取り組みにおける問題点を総括し、条例改正を含めた景観政策の改善が検討されている。たとえば、「きょうと空間創生術85~船岡山から山科は見えるのか~」でも問題提起をおこなった、北区・船岡山からの眺めに対する山科区の建物におけるデザイン規制についても、今回の改正案では指定区域の解除がようやく提案されている。

 また、優良な建築デザインを誘導するために設置されていた「デザイン基準」の特例制度。この制度の活用には障害も多く、結局、民間建築物においては、1件(研究施設)の認定しかなされていない。これでは、「市民と共に創造する京都の美しい景観」という、当初の理念も十分に実現されているとは言い難い。 50年後、100年後の京都の将来を見据えた、望ましい都市の"かたち"を考えながら、京都で育まれた、美しい遺伝子を守り育て、未来へと引き継ぐ使命が我々にはあると思うのである。

流れづくりの流線美

(2010年7月30日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術95より引用)

 古来より淀川・鴨川の水源の地・水の神様として崇敬を集める、京都市左京区の貴船神社。現在もなお、全国の料理業や調理業・水を取り扱う商売の人々から信仰を集めている。
 貴船神社の歴史は古く、その創建は今から約1600年前。仁徳天皇の第三皇子、第十八代・反正天皇(406年~410年)の御代であると伝えられている。日本後紀には、平安初期の延暦15(796)年、東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に貴船神社の神が現れ、対岸にある鞍馬山に鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されており、その当時すでに貴船の神は大きな影響を及ぼしていたものと考えられる。
 水の供給をつかさどる神、高龗神(たかおかみのかみ)を祀(まつ)るこの神社は、古来より祈雨の社としても信仰をされている。平安遷都後は、日照りや長雨がつづいた時に、また国家有事の際には国の重要な神社として必ず勅使が差し向けらることとなる。「雨乞(ご)い」には黒馬を、「雨止(や)み」には白馬又は赤馬をその都度献じ、祈念がこめられたのであるが、度重なる御祈願のため、時には生き馬に換えて馬形の板に色をつけた「板立馬」を奉納したようである。これが、現在の「絵馬」の原型であるといわれており、室町時代以降は馬以外にさまざまな動物が描かれるようになっていく。
 写真は、貴船神社の社殿。銅板葺(ふ)きが美しい本殿は、平安初期に成立したと考えられる神社本殿形式の一つである”流れづくり”。切妻造り・平入りに緩やかな反りを持つ独特の屋根をあわせた形態は、風格のある流線美を形成している。建築と万物の命の源である「水」の関係を考える良い機会に恵まれた。

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柳小路と八兵衛明神

(2008年10月17日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術54より引用)

京都で最も賑わいのある繁華街、四条河原町。その北西部分には、「柳小路」という小さな通り抜けができる路地が存在する。巾2mほどの小さな路地であるが、両側には古くからの飲食店や居酒屋が建ち並び、昭和のレトロな雰囲気を今もなお現在に伝えている。河原町オーパの裏側と美松劇場の間にあり、うっかりすると見過ごしてしまいそうなほどである。

 この「柳小路」の歴史は古く、天正18年(1590)から始まった、太閤秀吉の京都大改造にまでさかのぼる。洛中に散在していた諸寺院は、東京極あたりに強制的に移転させられ、「寺町」を形成するに至る。現在の中之町、柳小路界隈には 歓喜光寺が高辻烏丸より移転し、境内には天満宮も移設された。明治政策の神仏分離により、明治40年に現在の京都市山科区へと寺院は移転するのであるが、天満宮は取り残された。現在でも、境内にあった天満宮は「錦天満宮」として、新京極通りに残り、学業と商売繁盛の神様として市民に親しまれている。

 そんな、歓喜光寺の境内には三匹の狸が住み着いていたそうである。名前を「六兵衛」「七兵衛」「八兵衛」といったそう。柳小路の中にある「八兵衛明神」。小さなお社の中には、かわいい8体の信楽焼の狸がおかれている。寺院が移転す るときに、「八兵衛」狸を祀り、地域の鎮守社として創建された。【商売上達】・【招恋】・【幸福満々】・【成績良好】・【心身健康】・【金運最高】・ 【勝運良調】・【家内安全】とまさに八相縁起の御利益を授かれる神社として、人気のスポットとなっている。ちなみに、「六兵衛明神」は錦天満宮、「七兵衛明神」その隣の丸二食堂にそれぞれ祀られている。

 石畳と柳が印象的な「柳小路」。買い物帰りのひとときに訪れてみるのもいいのではないだろうか。

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技と心をつなぐ一枚板

(2010年01月15日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術83 より引用)

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先日、東山区知恩院門前にほど近い「祇園えもん」という、一件の和食料理店を改装する機会に恵まれた。聞けば、25年前の創業以来、包丁一つでこだわりの寿司を握り続けてこられたご主人が、後継者であるご子息と一緒に新しい寿司海鮮料理店をリニューアルオープンしたいというのである。
30坪弱の従前の店内には、紅葉を配した小さな坪庭も整備されており、四季折々の風情も楽しめる京都らしい雰囲気のある空間ではあった。しかしながら同時に、飾り気のない無難なデザイン構成であったため、どことなく印象の弱さを感じさせるスペースでもあった。
ただ、長年、カウンターとして使用されていた長さ2間半ほどもある一枚の檜板は大切に使用され、毎日丁寧に手入れをされてきた。厚み3寸程もあるその一枚板は、反りを生じることもなく、むしろ年を経るごとに美しくなっているようにすら感じられた。店舗コンセプトに基づき、様々なリニューアルプラン案が検討される中、私はこのカウンターだけは残しておきたいと考えた。私には、まるで一枚板が、先代から二代目へ受け継がれる大切な心のバトンのように感じられたからである。
「ともに仕事をしていくなかで、師匠である父から受け継いだ技と心を大切に、素材と向き合い、感性の赴くままに、自分の料理を究めていきたい。」と二代目 安喰一智氏。父親から受け継いだバトンに、更に磨きをかけて輝きを増してほしい。そんな願いをこめた空間創生プロジェクトであった。

古い建具をリサイクル

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秀吉による京都改造によって京都寺町と同時期に形成された寺院町「寺之内」。そんな、寺之内の一角にある、路地奥の空き家。先日、そんな一軒家を改装する機会に恵まれた。空き家となって、しばらく放置されていたために、雨漏りもひどく、お化け屋敷のような家屋の再利用を望んでおられたクライアントからの最初の言葉は、「なんとかなるでしょうか?」との不安げな質問からであった。
念入りに解体調査を行いながら、腐朽している部分を取り替え、適宜、補強修繕を施していく。半ば、古い町家を治療するといった感覚に近い状態で、再生計画を進行させた。
今回、建具の選定にあたっては、他の町家で使用されていた古い建具を積極的に転用。玄関戸やふすま・障子といった建具の他にも、下駄箱や食器棚といった部分にまで古建具を再利用し、その数は合計14カ所にもおよんだ。
実は、京町家に使用されている、たたみや建具といったさまざまな部品は、他の町家にもぴったりとはまる様に、ある一定の規格で製作されている。たとえば、一般的に京間と呼ばれる、畳の大きさは3尺1寸5分(955mm)×6尺3寸(1909mm)で統一されており、その畳がどこでもはまるように、京町家は設計されている。現在のダブルグリッドと呼ばれる設計手法にあたり、古い部材を簡単にリサイクルできるよう先人たちが考え出した叡智なのである。
古い建具を手に触れてみると、使い込まれたなんともいえない味わいの良さがある。
古い梁との調和も美しく、粗大ゴミになりかけていた古建具も再び輝きを取り戻した。環境問題が取りざたされている現代社会。先人たちのリサイクル技術をもう一度見直してみてはいかがだろうか。

火袋空間を快適空間に

(2010年3月26日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術87 より引用)

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京都の町家には、「通り庭」という独特の細長い吹抜空間が存在する。町家の表通りの玄関部分から裏庭へと通された土間スペースであり、基本的に建物の南か東に配される。京町家に暮らす人々は、この土間スペースで炊事を行い、おくどさん(かまど)に木をくべながら日々の暮らしを営んでいたのである。

そんな、通り庭の台所上部の梁や柱が交差する吹抜けのスペースは「火袋」とよばれ、煮炊きものの煙や熱気を外へ逃がすための空間として計画されている。上部には、採光・煙出しのための天窓や高窓が配置され、そこから、柔らかな自然光が差し込む工夫もされている。

戦後、炊飯器やガスコンロの普及に伴って、おくどさんに火をくべることもなくなり、結果、火袋はその役割を担う必要がなくなった。他にも、ステンレス流し台や冷蔵庫・換気扇といった住宅設備も近代化され、人々の生活様式は大きく変化することになる。

写真は、左京区にある町家の改修事例。吹き抜け部分に床を貼り、細長い縦長の火袋空間を巧みに利用した快適な空間として再生させている。天窓からは柔らかな光が差し込み、ソファでくつろぎながら趣味を楽しめるプライベートスペースとしての利用が図られている。

現代において、単なる物置や倉庫として、あまり利用価値のない空間として取り扱われることの多い「火袋」空間。先人たちの智恵をもう一度見つめ直し、新しい空間資源として再活用を図ってみることも必要であると思うのである。

焼けずの寺の瓦塀

(2009年06月19日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術70 より引用)

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京都市上京区智恵光院五辻上る紋屋町にある日蓮門下京都十六本山の一つ本隆寺。長享2年(1488)に日真大和尚によって開創された、法華宗(真門流)の総本山である。もとは現在の四条大宮にあった本隆寺は、天文11年(1542)に現在の地を得て再建され、以後450年余の歴史をこの地に刻んでいる。
この本隆寺、享保15年・天明8年の二度にわたる洛中の大火にも、奇跡的に焼失を免れ、別名を「不焼寺」(焼けずの寺)ともいわれている。
享保15年(1730)の大火、「西陣焼け」。6月20日午後2時頃,上立売室町、大文字屋五兵衛宅台所から出た火は一瞬の間に西陣一体に広がり、室町通以西,北野天満宮以東,一条通以北,廬山寺通以南の西陣を焼き尽くす。西陣一帯は,3千数百軒が被災し,3,012機の織機を失い、壊滅的な打撃を受けることとなった。
その後西陣が再興の道を歩んでいた矢先、55年後には「天明の大火〔天明8年(1788)〕」が発生する。二条城の本丸が炎上し、京都御所までもが被害を受けたこの大火にあっても、本隆寺本堂・祖師堂・宝庫は奇跡的に焼失を免れたのである。以来、本堂に祀られている鬼子母神像は「火伏せの鬼子母神」といわれ、本堂南東角には「不焼寺止跡」の石碑も残っている。
写真は、そんな本隆寺境内を四方に取り囲む、土壁の写真。本堂の瓦の葺き替えの際に、古瓦を土壁に埋め込みながらリズムのあるデザインを施し、再利用を試みている。よく見ると、四周ともデザインが異なり、西側の瓦壁のデザインは比較的整然としている。ブロック塀で囲まれた、現在の住宅事情。環境問題が声高に唱えられている今、もう一度真剣に考え直す必要があるのではないだろうか。

築330年の京町家

(2010年04月23日号 毎日新聞京都版朝刊 京都空間創生術89 より引用)

17世紀の半ばから、18世紀の始めにかけて上方と呼ばれる京都・大阪を中心に発展を遂げた元禄文化。

江戸幕府5代将軍・綱吉の時代に、鎖国政策や幕藩体制の安定もあり、町人を中心に日本独自の美しい洗練された文化が華開いた時代でもあった。

井原西鶴や松尾芭蕉・近松門左衛門といった、文芸人が活躍したのもこの時代のことである。
写真は、京都市上京区下長者町にあるすっぽん料理のお店「大市」。元禄年間(1688-1703)の創業以来、当代で17代を重ねるすっぽん料理の老舗である。間口6間半の大きな間口を持つこの建物は、1件の家屋のようでありながらそれぞれ左右に独立した架構をもつ珍しい形態。写真左側(南側)の主屋棟は元禄年間の創業以来、約330年間、創建当初の姿をそのまま現在に伝える貴重な京町家である。

庶民が2階建てを建設することを禁止されていたこの時代にあって、中2階形式の町家は大変珍しく、きれいな卯建を備えているところからも相当立派な町家であったことを伺い知ることが出来る。外側の柱に数カ所ある刀傷は、武士がいたずらに町家を斬りつけた跡であるらしく、そういった部分も今となっては歴史を感じさせる。

志賀直哉の長編小説「暗夜行路」にも登場する、「大市」の内部空間に目を移すと、そこには初期型京町家ともいうべき、様々なデザインが目に付く。大きな通り庭はそのまますっぽん料理の厨房として機能的に整備され、天窓や煙抜き・準棟纂冪(じゅんとうさんぺき)といった京町家の基本的な要素も飾り気のない洗練されたデザインできちんと整備されている。今まで多くの京町家を見慣れてきた私にとっても、新しい驚きを感じた空間でもあった。

豪華な桃山文化や江戸初期の文化の伝統をうけつぎながら、独自の発展を遂げた元禄時代。町人の粋を肌で感じる貴重な空間として今後も大切に守っていきたい築330年の京町家である。

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